新刊情報

当初予定より半年以上遅れてしまいましたが……


岩田規久男飯田泰之『ゼミナール経済政策入門』(日本経済新聞社


ようやく脱稿いたしました.再校も終了し発売日は3/23日に決定しました.完成が遅れに遅れたのは……はい,完全に私のせいです.関係者の皆様には本当にご迷惑おかけしました.経済政策を「効率性・安定化・再分配」の3つに分類し,現代の政策課題について出来る限りの経済学的解釈と評価を行っています.

是非是非是非,ご高覧いただければと思います.

それはいかんよパオロさん!

さて,パオロ・マッツァリーノさんから再び経済学(?)に関する言及があったので再批判しておきたいと思います.参考のため,以下に関係部分を全文引用しておきます.


順を追ってお話ししていきましょう.


冒頭の「経済学者の批判ばかりしてきましたが、ここらでいったんやめにします。このまま悪口をいい続けても、最終的には経済学のお約束がのめるか否か、になるので結論は出ません」は非常に不誠実なまとめです.少なくとも私のパオロ氏に対する指摘のほとんどは経済学とは無関係な論理上の問題に終始しています.したがって「経済学のお約束」を呑めるかどうかとは関係がないはずです.


つづいて,経済学に関する紋切り型の批判が行われています.「経済学は世の中の法則を数式で解き明かしている」,またはそれが前提となるお約束のように欠かれていますが,これは誤解です.不運にも,そう感じざるを得ないできの悪いテキスト,講義に出会われたのかも知れませんが,経済学者100人に「経済学は経済学は世の中の法則を数式で解き明かす学問ですか?」と聞いたならば99人が「それは違うよ」と答えるでしょう(へんてこりんなことを言う人はどの業界にもいます^^).経済学が数学を使うのは「その方が楽だから」に他なりません.日常言語は多義的な部分が多いため,それをつかって厳密な議論を使用とすると各タームの定義を下すのに膨大な紙幅を費やしてしまう上,書き手の方もうっかり混乱してしまったりする……それを防ぐために数学という言語を使う人が多いのです.


ちなみに,現代経済学の祖であるミルトン・フリードマンはこの傾向に批判的なため,彼の論文はあまり(ものによってはほとんど)数学は使われていません.でもフリードマンの論理はまさに経済学の論理であり,その後の経済学にとって最も重要な示唆を与えています.なお,経済学の大前提は「人々は与えられた条件の下でなにかを最大(最小)にするように行動している」の一点です.


次は,経済学とは無関係に論理として問題がある言及が続きます.「どっちに転んだって金持ちはトクするし、貧乏人は貧乏くじを引かされるようにできてるのが世の中ってものだからです。」……これは非常に不味い.拙著『経済学思考の技術』の1章でも注意を喚起している「ことわざ・格言のみに依存した主張」です.なんかそんなような気もするし,世の中を斜に構えて捕らえているのでかっこいいという美点(?)があるのでつい用いてしまったのかも知れませんが,よ〜〜く考えてみてください.


もし,上の命題が正しいならば,貧乏はより貧乏になり,金持ちは永遠にもっと金持ちになり続けるはずです*1.これは近代以降200年の傾向としても,WWⅡ後の傾向としても正しくありません.特に一通りの開発を終えた国に関しては貧乏人の絶対的な生活水準だけでなく,所得格差も縮小傾向を持ちます.日本の直近の傾向(これも大竹文雄氏などから年齢効果ではないかとの批判が行われている)だけを見て,自分の直感に適う結論に飛びついてはいけません.


インフレの分配に与える影響に関しては,前回の議論の際の私のエントリにあるように,非自発的な失業・不完全就労が問題なのです.スーパーリッチ・安定雇用されている勤め人・不安定雇用もしくは自営業の三分割で考える,またはスーパーリッチと安定雇用者の間に引退者をいれてもう一度考えてみてください.金持ち・貧乏という二分法はインフレの問題を考えるに当たって適切な分割ではないことに気づかれると思います.この点に限らず,パオロ氏の発言に関する私の指摘に答えることなく,「どこかでだれかがこんな感じのことを言っていてけしからん」という批判(?)の方法をとることは議論の進め方としてあまりフェアではないように感じます.


次に,事実誤認について……「リフレ派の学者が、「マッツァリーノ必死だな」などという悪口を書いていたことです。」については田中秀臣さんのblogでのコメントを指しているかと思われます.山形さん自身が言及されているように,山形さんは学者ではありません.さらに「必死に何かをやってる人を「必死だな」と平気で揶揄」しているというよりも,自分のギャグを自分で解説しているところが主にダメだと指摘しているよう(僕もそれは確かにちょっと……と思いました)に読めます.パオロ氏が真剣に「わかりやすく説明しよう」としていることへの揶揄では全くないと思われるのですが,違うでしょうか?


同様に,「世間知・専門知などと珍妙な区別をしている学者たちに『反社会学講座』が支持されていたと知った」はソースはなんでしょうか?この区別を積極的に用いているのは3人くらいだと思うのですが…….ちなみに私はこの区別には非常に批判的です(自著で詳しく言及する予定です).この点に止まらず,ここ二回のエントリでは,ソースを示さずに,かつ誰の発言を示さずに印象批判を行っている部分が少々目立ちます.山形浩生氏も指摘の通り,匿名で漠然とした対象に悪口を書くというのでは2ちゃんねると変わりません.猛省を促します.


なお,「学者は世間知らずだ」「インテリさんの話は難しいだけでダメだ」という紋切り型の批判もいただけません.ビジネスマンとしての豊富な経験や,金銭面・家庭面で大変な苦労を経験した学者もいれば,なんとなく有名企業に就職してなんとなく日々を過ごしているサラリーマン,親から受け継いだ不動産からの所得で遊んで暮らすフリーター……多様な人がいるのです.パオロ氏自身は「自分は学者なんかと違って,豊富な経験と苦労をしている」と言ってみたところで,確認のしようもないですし,経験の多寡のみが議論の正当性を決めるならば,論理やデータは不要になってしまいます.


経済学者が好んで用いる格言に"Warm(Hot) Heart and Cool Mind "というものがあります.格言だけに依存した結論ですが(^^),パオロ氏の「熱い思い」を伝えるためにこそ,冷静に,論理的に議論をする必要があります.何の根拠も無しに「××は人を見下している」「××はエリートで人の気持ちが分からない」と言ってみたところで,そうかも知れないしそうじゃないかも知れない……要するに検証・反証不可能な話で意味がないのです.


論理とデータとソースに基づいた再批判を期待しています.これ以上自分のページでやるのも営業上ちょっとな〜という場合はこのblogのコメント覧を使ってください(…とさりげなく召致活動w)

以下http://mazzan.at.infoseek.co.jp/より引用


ところで、ここしばらく経済学者の批判ばかりしてきましたが、ここらでいったんやめにします。このまま悪口をいい続けても、最終的には経済学のお約束がのめるか否か、になるので結論は出ません(前提条件を信じるかという点において、学問は一種の宗教でもあるのです)。
 大学の教養課程で経済学を受講して、「世の中の法則を数式で解き明かしている! なんて素晴らしい学問なんだ!」と感激するか、「世の中をお約束理論で単純化してわかったつもりになるとは、なんて手前勝手な学問なんだ!」と呆れるか。すでにこの時点で経済学に対するまなざしは決まってしまいます。お約束がのめれば、その人にとって経済学は輝かしい理論です。のめない人にとっては、優等生のためのファンタジーでしかありません。
 ぶっちゃけた話、私はインフレでもデフレでも好きにすれば、という程度にしか考えていません。どっちに転んだって金持ちはトクするし、貧乏人は貧乏くじを引かされるようにできてるのが世の中ってものだからです。
 リフレに関する議論は、実際にインフレにできるかどうかを中心に回っているようですが、経済理論に興味のない私、および一般人にとっての関心は、インフレになったときの生活への影響、これに尽きます。すると学者は口々に、「庶民はインフレをいやがるが、インフレはそんなに悪いものじゃない」とおっしゃいます。でもそれって金持ち目線の一般論です。インフレになればGDPの成長が……とかいいますけど、GDPみたいなデカいものさし持ち出して庶民の暮らしを測られても困ります。資産を持たない貧乏人にとっては、インフレはやはりイヤなものです。少しばかり賃金が上がったって、物価も上がるし税金も上がる。結局チャラか、実質マイナスです。
 それは違う、と経済理論を振り回してシロウトを押さえ付けようってのは、経済理論に反しています。だって経済学では、人はお説教でなくインセンティブ(やる気を起こさせるためのエサ)で動くとされるんでしょ? じゃあ、庶民・貧乏人にとって、インフレを歓迎するインセンティブってなんですか。日本経済が発展すれば、おまえらにもそのうちいいことあるだろう、なんてのはインセンティブとはいいません。そういうのは日本語で「おためごかし」といいます。
 庶民にとってはインフレにするインセンティブが見えないのですから、支持しないのは当たり前です。リフレ派のみなさんが本気で庶民にインフレ政策を支持してほしいなら、庶民が喜ぶオプションをつけて誘導すべきなのです。こういう現実的な発想がなく、理論の正しさを押しつけてばかりいるから、「学者は世間知らず」の烙印を押されるのです。さて、オプションはなにがいいですかね。これはまさか勲章というわけにもいかないので……ま、私もなんか考えときます。
 ちょっと話は変わりますが、とてもがっかりしたことがありました。リフレ派の学者が、「マッツァリーノ必死だな」などという悪口を書いていたことです。こっちも悪口いったのだから、いい返されることに異議は申しません。でも、悪口ひとついうのにも芸がない。ネットでシロウトが使うフレーズをなんのひねりもなくパクるという、センスのなさにがっかりです。いえ、そんなのは些末な問題でした。言葉のセンス以前に、必死に何かをやってる人を「必死だな」と平気で揶揄できること自体、心を病んでいる人の発言としか、私には思えないのです。これには本当にがっかりしました。
 私の本やサイトは高校生くらいの人も読んでくれています。いきおい私も、具体的な例を出したり、こちらの主張をわかりやすく説明したりと必死になります。専門家の著作は、インテリの専門家同士だけでわかればいいという前提で書かれているので、一般人には何をいってるのか理解できません。伝えようとする必死さに欠けるのです。こどもの頃からお勉強ができて、さほど必死に勉強もせず一流大学に入り、なんとなく知的職業に就いてなかなかの所得を得るインテリたちは、おそらく一度も必死になることなく、世間を冷笑した顔で棺桶に入るのでしょう。
 『反社会学講座』が評価されたことはもちろん嬉しかったのですが、一方で私は、世間を小馬鹿にするだけで満足する冷たい皮肉屋を増やしてしまったのではないかとの危惧を抱いていました。ですから、世間知・専門知などと珍妙な区別をしている学者たちに『反社会学講座』が支持されていたと知ったとき、私は軽くショックを受けました。やっぱりか、と。
 社会と人間を肯定する気持ちが根底にあるからこそ、皮肉をいっても許されるのだと私は考えています。だからことあるごとに、私は現代の社会や人間に絶望などしていない、と主張してきました。人類はずっといいかげんだったし、いいかげんな人がたくさんいる、雑多で多様でいいかげんな社会だからこそ、おもしろいんじゃないですか、と。
 私は秀才ではないので、高みから世間を見下ろすエラそうな生きかたは性に合いません。世間にまみれて生きるほうが好きなんです。そして、真面目にふざける、どうでもいいことにこだわって調べる、いいかげんだけど必死。そういう矛盾した生きかたをしたいのです。書籍版『反社会学講座』の最後では、ネット公開版にはないまとめとして、努力することの意味について語っています。まだ書籍版を手に取ったことがないかたは、そこだけでもぜひ読んでください。そこにご賛同いただけず、うざいとか必死とか嗤うかたとは、悪いけど、一生わかりあえないと思います。

*1:そんな極端な反論はくだらない!というかも知れませんが……私の指摘は「あなたの主張はこんな極端なことを行っているのと同じですよ」と指摘しているだけで,別に私が極端なしゅちょうをする気はありません.