一発逆転思想三題
昨日はシノドスで音楽学の増田聡さんとお話ししてきました.氏のセミナーの趣旨は「Perfumeはいい!」「Perfume最高!」「Perfumeかわええ」というものでした.ヤードバーズ久々に聞いたぜ.シノドスではセミナー後に演者&受講生の皆さんでお茶(時にビール^^)を飲みながら雑談するのですが,そのなかでちょっと議論になったのが「理性の過剰と理性の過小」のお話.
欧米のポストモダン思想では理性(論理的に考え論理的に答えを出すこと)の過剰への反省というのが一つのテーマとのこと.これはある程度頷けるかも知れない.でも,それを日本に直輸入すると現実には役に立たない話ばかりになってしまう.だって日本って理性過小なんだもん.その結果,日本の現代思想は日本古来(?)の論理的に考えるのが苦手という意識に免罪符を与えている……いわば「理屈っぽく考えなくてもええじゃないか運動」をすんごい難しい言葉で語っているだけに見えてしまうことがある.芸術の世界はともかく*1,社会に関する思考において理性の過剰抜きに理性への反省をするのは実利がない.
この問題をカレーを食って飲んだくれながらぼんやり考えていたところ,ふと思いついたのが「一発逆転思想」の危険性についてです.ポストモダンの文脈を重視することははるか遠くに見えた欧米の思想にたいして日本の思想が一発逆転を狙いうるチャンスだからではないかとついつい勘ぐってしまう.
これに関連して思い至るのが不適応の問題です.僕の不登校・引きこもり・ニートの問題についての認識は巨椋修氏との議論に負うところが大きいのですが,こういった社会への適合困難が生じる理由のひとつが「自分で自分へのハードルをあげてしまっている」という点にあるように感じます.
例えば,一年間引きこもる.そのうちにかつての友だちや仲間はいろいろな経験をして,なかにはちょっとばかり成功を修めてしまっていたりする.以前の身内の輪に復活するに当たっては,せめて一年間の空白を埋めるだけの「手みやげ」的な経験や成長をもってのぞみたい.でも,そんなものはない.準備が出来ていないからもう一年ひきこもる.すると,次の年には「二年間の空白を埋めるだけのネタ」が必要になってしまう……実際には昔の友だちは「すごい成功」なんてなくても別に彼を受け入れてくれることが多いと思うんだけどなぁ.
立ちすくみの少なからぬ理由がこの種の「自分でもうけたハードル」なんじゃないだろうか.劣等感を拭ってあまりある成功を収めるという一発逆転というのは,ドラマのネタとしては面白くても,現実の行動指針としてはあまりにもリスキーでしょう.
僕自身には引きこもりや不登校の経験がないのでたいしたことは言えないけど,学者として似たような心情はしばしば経験する.いい年こいてろくな論文書いてない……昔の同期はどんどんジャーナル載っけてる.いまさら紀要じゃ自分のダメさを内外に広めることになるようにさえ感じる.だからすっごいのを書いてやろうと構想する.でもしばらく書いてないと……とそんなん当然無理いうわけ.僕があまり褒められたレベルじゃない論文でも書いたり報告したりしてるのはこのループにはまりたくないからです.
文脈はちょっと違うけど,これは古今をとわないことらしい.『徒然草』第一五〇段に,
能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
意訳:
芸を身につけようとする人の多くが「上手に出来ないうちは,なまじ人に知られない方がいい.人知れず練習して準備してから颯爽とデビューすればかっこいいだろう」というけど,そんな人が芸を身につけたためしはない.
というのがあります.けっこうメンドイこともあるだろうけど,何でも良いからなんかやってみると意外とすっきりしたりするもんだぜ♪
さて素人のつまらない人生論なのになぜタグが[economics]なのか……釣りか!? というとそういうわけではありません.この種の一発逆転はもしかしたら日本の経済学・経済評論にも蔓延している病なのかも知れないと感じられる.江坂さんが高橋洋一さんの新著『霞ヶ関埋蔵金男が明かす「お国の経済」』について,
その依って立つ理論的な背景は、3年間過ごしたというプリンストン大学でバーナンキなどとの交流でアメリカの経済学会で常識的な視点を獲得した・・ということなんだけれど。いい加減なことをテレビコメンテーター学者に語られるよりもいいけれど、それはそれでちょっと情けない気もする。
と言及されています.江坂さんは出版業界では有名な目利きですが,それでもこういう感想になるりますかぁ.確かに高橋さんの経済政策論には全然オリジナリティーがありません.んでオリジナリティーがなく正しい.政策提言として重要なのはオリジナリティーではなく有効性です.
海外留学で得たアメリカの主流派経済学を素直に日本に適用するというのは,高橋さんが学者じゃなく実務の最先端にいる官僚に出自を持つから出来たことかも知れない.国内の経済学者や留学帰りの学者*2はこう考える「現在流行の主流派理論に乗っかっていたんではけして現主流派を超える(評価を得る)ことはできない……だからちょっと変わったモデルをやろう」と.その結果,例えばマクロ経済学について主流派のごくごくふつうの知見(どんなのがごく普通の知見かは矢野タンのとこを見よ)が全然利用されないことになる.
加藤涼氏の『現代マクロ経済学講義』でも「変わったモデル好き好き病」が日本のマクロ経済学の有用性を大きく削いでいる点に言及されていますが……よく考えると彼も「学者」ではなく「実務最先端のエコノミスト」に出自があるんだよなぁ.
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