『経済成長って何で必要なんだろう』(光文社×シノドスリーディングス)発売

 先月お知らせしました,『日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)』に引き続きましてのシノドスリーディングス第2弾は,


経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)

経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)


です.タイトルからは一見経済成長懐疑論のように見えますが……少なくとも僕の部分は徹底的な経済成長賛美です.
 この本はシノドスでの岡田靖氏セミナーと僕と赤木智弘氏,湯浅誠氏との対談などがもとになっていますが,序章と終章での芹沢×荻上×飯田鼎談によって全体の位置づけを明確化することで,対談本にありがちな不統一感を(ある程度は)防げているんではないかと思います.
 赤木さんと湯浅さんとの対談はかなり勉強になりました.なかでも湯浅さんの

(貧困対策を実現化するために共感ベースを高めることが必要であり……)そこをやらないと,国会でその話をしたとたんに,単純に誰も話を聞いてくれなくなるんです.我々は話を聞いてもらわなきゃならない立場ですから.「会ってやろう」と言われて会う立場なので通じない話をしてもしょうがないんです.


という謂いにはハッとさせられます*1.これはまさに全経済学者が心して聞くべき話なんではないでしょうか.
 また,本書の終盤での荻上さんの質問が非常におもしろかった.日本は富裕層から貧困層ではなく,都市部から地方への再分配しかやってないという僕の話の切り返しに障碍者問題が出てくるとは……

(都市部から地方への再分配はおかしいという僕の話に対して)

荻上 しかし、過剰な豊かさまで求めなくとも、「田舎に住み続けたいが、経済的にも保障されたい」という人は多くいるでしょう。少し別の話で考えさせてください。例えばこれは実際に起きがちなケースでもありますが、友達と一緒に地元の公立の学校に通いたいと主張している障害者の人がいたとします。しかしその学校がバリアフリーになっていなかった。だから地元の学校に行くのはあきらめて、都会にある養護の専門学校に行けばいいじゃないか、という話に置き換えてみましょう。もちろん問題は違いますが、本人の希望を断念させるためのロジックが非常に似ています。僕は、リベラルな社会というのは、こうした自由を擁護するためにも、ある程度の寛容さが必要だと考えています。


芹沢 その子一人のために学校を変えろというのは、経済合理性から言ったらナンセンスだけれど、それでも対応したほうがいいと。


荻上 そう。例えば東横インが障害者用の部屋を違法改造した際、社長が「障害者用客室つくっても、年に1人か2人しか泊まりに来なくて、結局、倉庫みたいになっているとか、ロッカー室になっているのが現実」と発言して話題になりましたが、ネット上でも擁護の声が大きくあった。個別の経営者からすれば、その方が合理的だろう、と。しかし、そうした選択を許容しすぎると、同じ社会に生きている者に対して、自由を享受するための障害を新たに与えてしまうことになります。社会的な公正さのために、政治がなすべき領域は残るでしょう。


飯田 その問題は経済学思考の非常に良い練習問題になっていると思います.費用便益分析,保険の問題というふたつの典型的な経済学的問題を含んでいますから.
 まず費用便益分析の部分から話していきましょう.「バリアフリーにすべきか否か」と言う問題は経済学で直接解決することは出来ません.経済学の仕事は「バリアフリー施策にいくらかかるか」を示した上で,「バリアフリーにあなたはいくら払えますか」と問うことです.例えば学校のバリアフリー化の例では,費用総額を計算し,もちろん均等割である必要はありませんが話を単純にするために地域住民1人当たりの負担を示す必要がある.その負担額を見て「バリアフリーという価値」にそれだけの金額を払う気があるのかという点から諾否を考えるというのが経済学的な手順になります.
 ただし,以上のプロセスにはちょっと問題があります. 「バリアフリー社会という価値」は障碍者自身やその家族にとってはプライオリティが高いテーマである一方で,それ以外の人はそれほど重視していない.置かれている状態によって払う気のある金額が全然違うわけです.ここに価値観の対立がある.この問題は保険問題として処理すると解決の筋道が見えてきます.


芹沢 保険ですか?


飯田 はい.保険です.障害を持ってしまった場合にはそれに対して福祉という形のサービスが提供されるという保険なワケです.誰しもが好きこのんで障碍者になったわけではない.そして僕たちも可能性としては生来の障碍があったかも知れないですし,これから事故や病気で障碍を持つ可能性もあるという点がポイントです.すると,障碍者福祉の水準をどの程度にするかは,まだ生まれていない子供に対してどのくらいの障碍保険を払うべきか,これからあうかも知れない障碍に対してどのくらいの障碍保険水準が適切かという問題に落ち着くことになる.繰り返しになりますが経済学が出来るのはこの様な整理までです.その後は価値論争の問題.


芹沢 つまりは価値論争を行う準備段階までを提供するのが経済学者の役割というわけですね.


飯田 そうです.この様に整理すると学校のバリアフリー化は「一人だけのためにそんな費用をかけるなんて」と言う問題からこれからの子供達へ,そして今後不運にも障碍を負ってしまった場合への保険と言う問題として議論を深めていくことが出来るようになるでしょう.もちろんちょっと特殊な保険形式ですから費用徴収が難しいというのはありますが.私は障碍者問題に疎いのですが,障碍者福祉についてはそれなりの金額までならば受容されるコンセンサスがあるんじゃないかと思います.


荻上 では元の問題である「田舎に住み続けたいが、経済的にも保障されたい」についてはどうでしょう.


飯田 この問題もまずは費用便益からですね.

(中略)

 福祉は金がかかるといわれますが,一万人しか養えないところに、十万人住んでいるのを支えるのにはもっと金がかかる.田舎に住み続けたいし経済的にも保証されたいという感情と欲求のために日本国民が年収の1割を提供すべきか,これは経済学的結論ではなく僕の価値観すが,答えはノーなんじゃないでしょうか.

(中略)

 地方人口の維持は保険としての性質も持っていない.都市部に移住することは自由ですから.だいいち東京圏や京阪圏で地元出身者の割合なんてわずかでしょう.保健機能をもたない価値観に対していくらまで支払えるのか,金額を示した上での論争が望まれます.


 経済学者同士,継続的な論争相手……との討論とは異なり,この手の「お!そうくるんか!」というボールが来るところが異業種(?)交流*2のおもしろいところですね.うまく返せているとこは少ないかもしれないけど…….
 ちなみに8月にも貧困問題についての著作が出る予定です.こちらも順次告知させていただければと思います.

*1:もちろん湯浅さんは対国会議員の戦略という狭い文脈ではなく,社会全体への話として話されています.

*2:まぁ岡田さんは同業ですが,これはこれで大プレミアでしょ?