和同開珎の交換レート問題

新著が明後日あたりに書店に並び始める予定です.
日本史に学ぶマネーの論理

日本史に学ぶマネーの論理

 

面白いんだけど貨幣論関係ないなぁとか,重要なことなんだけど自分の中でしっかり整理・理解してないなぁとか,私の中だけでの思いはあるけど根拠皆無みたいな。。。。書籍に書くことができなかった部分のいくつかを,たまーにこのblogで追記していきたいと思います.

 

■まずは和同開珎の話から

 第一章(古代編)のハイライトは,和同開珎が我が国初の「政府発行の流通貨幣」になるプロセスです.和同開珎以前に流通していた無文銀銭の機能をどのように政府貨幣に吸収させていったのかについての詳細は本編を参照いただくとして,ここでは和同開珎発行時の大きな謎を考えます.
 
和同開珎には銀銭と銅銭があるということはご存じの方も多いでしょう.
 
708年(和銅元年)の5月に銀銭が,8月に銅銭が発行されます.しかし,銀銭は翌年3月には使用制限が始まり,8月には発行が停止されます.ここから政権は,
 
「本当は銅銭(のみ)を発行したいが,しかたなく銀銭も発行した」
 
ことがうかがわれます.銀銭の発行は,
 
「無文銀銭→和同開珎銀銭」
「和同開珎銀銭→和同開珎銅銭」
 
の二段階で新通貨(=和同開珎銅銭)に移行させようとしたとの解釈が説得的です. なぜ,銅銭なのか.それは銅銭の方が貨幣発行益が大きいからでしょう.では,銀銭に比べ,銅銭はどのくらい発行益が大きかったのか.それを知るには,

 

和同開珎銀銭と銅銭の交換比率

 
が必要です.本編では代表的な説である「銀銭1=銅銭10」と「銀銭1=銅銭1」の二つを取り上げていますが,両説の論理には触れていません.今回のおまけ編は,この両説の根拠を説明しておきたいと思います.
 
 
藤原京左京門傍
両説の相違点は藤原京左京から出土した木簡での商品価格資料の解釈にあります.大宝年間(701年-704年)の資料なのですが,商品の価値が銀と布の2通りで表記されていることから,当時の銀の価値を導くことができるというわけです.
 
裏面も結構重要なのですが,ここでは表面だけに注目しましょう.
 内蔵寮解 門傍  紵二□  銀五両二文布三尋分
                布十一端

 です. 紵(麻の一種)の2□(□は重さや個数を表すと思われるが解読できず)の交換レートを表す木簡です.この史料から和同開珎の銀銭・銅銭交換レートを推測することになります.

 
■「銀銭1=銅銭10」説
まずは,通説的理解である「銀銭1=銅銭10」からいきましょう.同説ではこの木簡を,
 
 「紵2□=銀5両2文+布3尋分=布11端」
 
と読みます.銀(無文銀銭)は結構な高額貨幣なので,細かな価格までは表示できません.そこで,端数部分を布で表したというわけです.銀1両は4文(無文銀銭4枚)ですから,
 
銀22文+布3尋=布11端
 
というわけですね.大宝律令で定められた布の規格は
 701年(大宝元年)の布の規格<5丈2尺規格>
1端=4常=8尋(=5.2丈)

 です.ここから,

 
銀22文+布1.5常=布44常
 
となる.ここから,
 
銀1文=布1.93常(≒2常)
 
という計算ができるわけです.一方で,この門傍よりも10年ほど後,和同開珎発行から3年ほどたった712年(和銅4年)の朝廷の公的な布の交換レートでは,布1常=和同開珎銅銭5枚となっています.無文銀銭と和同開珎銀銭は等価交換されていたと考えられることから,
 
和同開珎銀銭1枚=和同開珎銅銭10枚(=布2常)
 
という計算が成り立つわけです.
 
 
■「銀銭1=銅銭1(等価交換)」説(今村仮説)
一方で「1:1」説は今村啓爾氏(東京大学帝京大学)の研究によります.和同開珎銀銭と銅銭の交換比率についての直接的な言及は残されていません.等価交換説では,その理由を「交換比率を明記する必要がなかった(同じ銭文なのだから同じ価値に決まっている)」ためだと類推します.
 
今村説では門傍を,
 
紵2□=銀5両2文=布3尋分布11端
 
と読みます.「布三尋分」を銀銭の下位単位ではなく,後に続く「11端」の規格単位を表していると考えるのです.ここで問題になるのが,当時の布の規格です.大宝律令以前の天武朝期には, 
676年(天武5年)の布の規格<4丈規格>
1端≒3常=6尋(=4丈)

で取り扱われていました.さらに3尋,つまりは0.5端の布は「三尋布」と呼ばれ,価値・価格の表示単位に使われていた例があります.この「三尋布」という計算単位がくせ者です.

 大化の改新から大宝律令の直前,つまりは木簡が記録された時期の少し前,4丈規格の布が主流だったわけです.そのため,国庫にも世間にも多くの旧4丈規格の布があったことでしょう.そのため,大宝年間の資料ではあるものの,実際に取引されたのは旧規格の布だったと考えるわけです.
 
ここに今村説ではもうひとつの仮定が加わります.「端」を長さの単位ではなく一般名詞「本・枚・きれ」の意味と捉えて,
 
 布3尋分布11端 → 「三尋布」×11

と読むのです.すると,

銀5両2文(22文)=三尋布×11
銀1文=三尋布×0.5
   =布0.75常 (3尋=1.5常)

となる.一方,銅銭については和同開珎銅銭5枚で1常なわけですから,

銀(無文銀銭)1文
=和同開珎銀銭1枚=布0.75常=和同開珎銅銭3.75枚

という計算が成り立ちます.

ここで,「布1常=和同開珎銅銭5枚」が和同開珎発行から4年近くたってからの値であることに注目しましょう.和同開珎銅銭の価値は発行から十数年間下落を続けました.

ここから当初(708年)には「銀銭1枚=銅銭1枚」の公定レートで発行されたが,4年後の712年には「銀銭1枚=銅銭3.75枚」まで価値が低下していた....という等価交換とその目論見失敗説が導かれるわけです.


■両説の欠点と新仮説!
 「1:10」説の欠点のひとつは,銅銭の価値が発行後4年たっても当初の公定レートから低下していなかったことになる点にあります.十年後(722年)には「銀銭1=銅銭25」まで低下する銅銭価値が発行から4年間は低下していなかったとするのは難しい.ただし,712年の「布1常=銅銭5枚」は「公定レート」なので,銅銭の価値を維持するためにあえて銅高のレートを示したと考えることもできます.また,その後の皇朝十二銭において,新銭1=旧銭10の交換比率が繰り返されたことなども,「1:10」説の傍証となり得るでしょう.
 一方で「1:1」説の問題点は門傍の解釈です.「端」を「”三尋布”11本」と読むのは大胆すぎると評価されても仕方がない.さらに「銀1文=布0.75常(布1常=銀1.34文)」はそのほかの史料からして布が高すぎるのではないかという点も問題です.
 
 本編を読まれた方は以上のまとめを意外と思われるからかもしれません.本編では,「1:1」説と「1:10」説につて判断を留保しています.その理由が,井上正夫氏(松山大学)による新仮説です.
 
 ここでもポイントは「三尋分布」です.「三尋布」は計算単位としても用いられていました.ここから,「三尋分布」を規格そのものを表すーーつまりは木簡に登場する布が旧規格(4丈規格)であることを示す挿入句であると考えるのです.つまりは,

銀5両2文=布3尋分布11端
     =旧規格の布11端
 
と読むわけです.詳細は
 
 
に譲るとして,この新仮説に従うと「高すぎる布」の問題を生じさせずに「1:1」説に有利な解釈が得られます.この新仮説があることから,「1:10」が明確に優勢であるとまではいえないと感じたため,書籍の記述では結論をぼやかすことにしました.
 
 
 皆様はどの解釈が「しっくり」来ましたか? 残された資料と状況証拠から推理は1:10説の方が説得的だと感じます.ただ,実は個人的には「1:1」説が正解であって欲しい……というかその方が面白いのになぁというのも素直な感想です.私がこの話を小説に書くとしたら「1:1」説で書くなぁ(笑)