「ポピュリズム」を経済から考える

他用で感度を下げていると,すぐに米国と中国以外の海外情報が見えにくくなってしまいます.しかし,先月の参院選でもおおいに話題となった「ポピュリズム」「反緊縮」といった話題を考えるにためには米国よりも欧州に関する知識が必要.そんなとき,議論への入り口を形成してくれる本がこちらです.というわけで,少し遅ればせながらの書評と紹介.
 
タイトルは「労働者の味方をやめた世界の左派政党」ですが,「労働者の味方をやめた世界の政治」といってもよいかも.
労働者の味方をやめた世界の左派政党 (PHP新書)

労働者の味方をやめた世界の左派政党 (PHP新書)

 

 

本書のストーリーは明確です.
 
・「知的エリート」が左派政党の主要な支持層になることで,
・(財政的な)緊縮主義と寛容な移民受入が選択され,
・それが労働者・低所得者の利害と対立することで,
・今日「ポピュリズム」と呼ばれる政治的な潮流が生まれる
 
というもの.このストーリー自体はどこかで見たことがあるという人もいるでしょう.本書の特徴は英国・フランス・そのほか欧州(主に独・伊)の政治と経済政策に関する近年の流れを完結に紹介した上で,このストーリーの汎用性と強力さを確認していることにあります.ふと忘れて,または情報更新せずに過ぎてしまった欧州の政治状況のクイック・レビューとしても有用.
 
ちなみに,筆者は邦銀・外銀双方に渡って国際金融の実務に長く身を置くまさにグローバル人材.ですが,ポピュリズム・反緊縮といった潮流を批判的に捉えてはいないように感じます.むしろ,既存政党の「まずい政策運営」に対する当然の反応ととらえている感じ.
 
私自身は,
・誤解を招きやすいので「ポピュリズム」という用語をあまり使わない
・「大衆迎合主義」という訳(?)にいたっては議論をミスリードするだけだ
ポピュリズム大衆迎合主義なら,そうではない主張は「エリート迎合主義」なんじゃないかと思ったり・・・*1ttps://twitter.com/psj95708651/status/1150704986856120321?s=20 https://twitter.com/psj95708651/status/1150704986856120321?s=20
 
本書全体の枠組みは,ピケティの「バラモン左翼と商売人右翼*2に依拠しています.ピケティの「発見」と「政治の対立軸」は,
 
・資産の多い人は右派政党に投票(この傾向に変化はない)
・所得が多い人は右派政党に投票(この傾向は近年弱くなっている)
・マイノリティ(非白人)は左派に投票
・女性はかつては右派に投票していたが,近年では左派に投票する傾向
・高学歴者はかつては右派に投票していたが,近年では左派に投票する傾向が高まっている
(吉松p25を縮約)

 ここから形成される近年の政治的な対立軸として

 ・グローバリスト vs ネイティビスト
所得再分配に熱心 vs 冷淡

をあげて,政治家・政党を四象限に分類していきます.例えば,「グローバリストで再分配に冷淡」となるとある意味戯画的な新自由主義になるでしょう.一方で,「グローバリストで再分配に熱心」だといわゆる伝統的な欧州の左派政党になる.そして,「ネイティビストで再分配に熱心」な主張――例えばマリーヌ・ル・ペン(国民戦線)は「ポピュリズム」とくくられる.

 
本書の原型に当たる報告を聞いたときは,ピケティの原論文の紹介という色彩が強く,その有用性を十分に把握していませんでしたが――あらためて近年の各国の経済政策の流れと比較対照しながら読むと,
 
いかにして,左派政党が,政治全体が労働者の味方をやめていったのか
 
が理解できます.いわゆる「ポピュリズム」の潮流が「なぜ求められた」「必要になったのか」を考える大きなヒントにもなるでしょう.
 
ちなみに,欧州における政治的な潮流についてはぜひ尾上修悟先生の著作をあたるべき――ですが,網羅的で詳細(褒め言葉です)すぎて元々この分野に詳しかったり,明確な目的を持って読んでいないと途中でついて行けなくなります.その意味で,吉松氏の本を読み,さらに知りたくなったときには以下の二冊をおすすめします.

 

 

「社会分裂」に向かうフランス――政権交代と階層対立

「社会分裂」に向かうフランス――政権交代と階層対立

 

 

【告知】6/28 19時~ 神楽坂でトークイベントやるよ

 現代ビジネスに書いた2000万円問題に関する記事――結構注目していただいているようで,ここぞとばかりに便乗告知です.

 

■概要■

「日本のマネーはこれからどうなる? ~貨幣の歴史から考える〜」

・2019/6/28 19:00-21:00

・新宿区神楽坂6丁目43 K’sPlace

・1500円1drink付(学割1000円)

を開催します.2時間のイベントですし,人数もそれほど多くはない箱なので70分くらい話して,10分くらい休憩&質問考えてもらって,残り40分は乱取り形式で質問に答えていこうかなと思います.

 

トークテーマは,

・和同開珎はいかにして貨幣となったのか

・貨幣内生説と貨幣外生説から考える室町期の経済

MMT(現代金融理論)とリフレ論って何が違うの?

・日本人の経済観ってどこに源流があるんだろう

・仮想通貨は基軸通貨になり得るのだろうか

あたりを著書では書き切れなかった,自身の感想や予感を交えながら語っていければと考えております.

 

とはいえまだノーアイデアに限りなく近いので,著書を読んでくださった上で,この話もっと突っ込めるだろ!という論点ありましたらコメントなどいただければ幸いです.

 

 

 

 

 

『日本史に学ぶマネーの論理』誤植・訂正

 拙著『日本史に学ぶマネーの論理』の誤植訂正に関するエントリです.

コメント欄に順次付け加えていき,増刷時に訂正したいと思います.

 

日本史に学ぶマネーの論理

日本史に学ぶマネーの論理

 

 

和同開珎の交換レート問題

新著が明後日あたりに書店に並び始める予定です.
日本史に学ぶマネーの論理

日本史に学ぶマネーの論理

 

面白いんだけど貨幣論関係ないなぁとか,重要なことなんだけど自分の中でしっかり整理・理解してないなぁとか,私の中だけでの思いはあるけど根拠皆無みたいな。。。。書籍に書くことができなかった部分のいくつかを,たまーにこのblogで追記していきたいと思います.

 

■まずは和同開珎の話から

 第一章(古代編)のハイライトは,和同開珎が我が国初の「政府発行の流通貨幣」になるプロセスです.和同開珎以前に流通していた無文銀銭の機能をどのように政府貨幣に吸収させていったのかについての詳細は本編を参照いただくとして,ここでは和同開珎発行時の大きな謎を考えます.
 
和同開珎には銀銭と銅銭があるということはご存じの方も多いでしょう.
 
708年(和銅元年)の5月に銀銭が,8月に銅銭が発行されます.しかし,銀銭は翌年3月には使用制限が始まり,8月には発行が停止されます.ここから政権は,
 
「本当は銅銭(のみ)を発行したいが,しかたなく銀銭も発行した」
 
ことがうかがわれます.銀銭の発行は,
 
「無文銀銭→和同開珎銀銭」
「和同開珎銀銭→和同開珎銅銭」
 
の二段階で新通貨(=和同開珎銅銭)に移行させようとしたとの解釈が説得的です. なぜ,銅銭なのか.それは銅銭の方が貨幣発行益が大きいからでしょう.では,銀銭に比べ,銅銭はどのくらい発行益が大きかったのか.それを知るには,

 

和同開珎銀銭と銅銭の交換比率

 
が必要です.本編では代表的な説である「銀銭1=銅銭10」と「銀銭1=銅銭1」の二つを取り上げていますが,両説の論理には触れていません.今回のおまけ編は,この両説の根拠を説明しておきたいと思います.
 
 
藤原京左京門傍
両説の相違点は藤原京左京から出土した木簡での商品価格資料の解釈にあります.大宝年間(701年-704年)の資料なのですが,商品の価値が銀と布の2通りで表記されていることから,当時の銀の価値を導くことができるというわけです.
 
裏面も結構重要なのですが,ここでは表面だけに注目しましょう.
 内蔵寮解 門傍  紵二□  銀五両二文布三尋分
                布十一端

 です. 紵(麻の一種)の2□(□は重さや個数を表すと思われるが解読できず)の交換レートを表す木簡です.この史料から和同開珎の銀銭・銅銭交換レートを推測することになります.

 
■「銀銭1=銅銭10」説
まずは,通説的理解である「銀銭1=銅銭10」からいきましょう.同説ではこの木簡を,
 
 「紵2□=銀5両2文+布3尋分=布11端」
 
と読みます.銀(無文銀銭)は結構な高額貨幣なので,細かな価格までは表示できません.そこで,端数部分を布で表したというわけです.銀1両は4文(無文銀銭4枚)ですから,
 
銀22文+布3尋=布11端
 
というわけですね.大宝律令で定められた布の規格は
 701年(大宝元年)の布の規格<5丈2尺規格>
1端=4常=8尋(=5.2丈)

 です.ここから,

 
銀22文+布1.5常=布44常
 
となる.ここから,
 
銀1文=布1.93常(≒2常)
 
という計算ができるわけです.一方で,この門傍よりも10年ほど後,和同開珎発行から3年ほどたった712年(和銅4年)の朝廷の公的な布の交換レートでは,布1常=和同開珎銅銭5枚となっています.無文銀銭と和同開珎銀銭は等価交換されていたと考えられることから,
 
和同開珎銀銭1枚=和同開珎銅銭10枚(=布2常)
 
という計算が成り立つわけです.
 
 
■「銀銭1=銅銭1(等価交換)」説(今村仮説)
一方で「1:1」説は今村啓爾氏(東京大学帝京大学)の研究によります.和同開珎銀銭と銅銭の交換比率についての直接的な言及は残されていません.等価交換説では,その理由を「交換比率を明記する必要がなかった(同じ銭文なのだから同じ価値に決まっている)」ためだと類推します.
 
今村説では門傍を,
 
紵2□=銀5両2文=布3尋分布11端
 
と読みます.「布三尋分」を銀銭の下位単位ではなく,後に続く「11端」の規格単位を表していると考えるのです.ここで問題になるのが,当時の布の規格です.大宝律令以前の天武朝期には, 
676年(天武5年)の布の規格<4丈規格>
1端≒3常=6尋(=4丈)

で取り扱われていました.さらに3尋,つまりは0.5端の布は「三尋布」と呼ばれ,価値・価格の表示単位に使われていた例があります.この「三尋布」という計算単位がくせ者です.

 大化の改新から大宝律令の直前,つまりは木簡が記録された時期の少し前,4丈規格の布が主流だったわけです.そのため,国庫にも世間にも多くの旧4丈規格の布があったことでしょう.そのため,大宝年間の資料ではあるものの,実際に取引されたのは旧規格の布だったと考えるわけです.
 
ここに今村説ではもうひとつの仮定が加わります.「端」を長さの単位ではなく一般名詞「本・枚・きれ」の意味と捉えて,
 
 布3尋分布11端 → 「三尋布」×11

と読むのです.すると,

銀5両2文(22文)=三尋布×11
銀1文=三尋布×0.5
   =布0.75常 (3尋=1.5常)

となる.一方,銅銭については和同開珎銅銭5枚で1常なわけですから,

銀(無文銀銭)1文
=和同開珎銀銭1枚=布0.75常=和同開珎銅銭3.75枚

という計算が成り立ちます.

ここで,「布1常=和同開珎銅銭5枚」が和同開珎発行から4年近くたってからの値であることに注目しましょう.和同開珎銅銭の価値は発行から十数年間下落を続けました.

ここから当初(708年)には「銀銭1枚=銅銭1枚」の公定レートで発行されたが,4年後の712年には「銀銭1枚=銅銭3.75枚」まで価値が低下していた....という等価交換とその目論見失敗説が導かれるわけです.


■両説の欠点と新仮説!
 「1:10」説の欠点のひとつは,銅銭の価値が発行後4年たっても当初の公定レートから低下していなかったことになる点にあります.十年後(722年)には「銀銭1=銅銭25」まで低下する銅銭価値が発行から4年間は低下していなかったとするのは難しい.ただし,712年の「布1常=銅銭5枚」は「公定レート」なので,銅銭の価値を維持するためにあえて銅高のレートを示したと考えることもできます.また,その後の皇朝十二銭において,新銭1=旧銭10の交換比率が繰り返されたことなども,「1:10」説の傍証となり得るでしょう.
 一方で「1:1」説の問題点は門傍の解釈です.「端」を「”三尋布”11本」と読むのは大胆すぎると評価されても仕方がない.さらに「銀1文=布0.75常(布1常=銀1.34文)」はそのほかの史料からして布が高すぎるのではないかという点も問題です.
 
 本編を読まれた方は以上のまとめを意外と思われるからかもしれません.本編では,「1:1」説と「1:10」説につて判断を留保しています.その理由が,井上正夫氏(松山大学)による新仮説です.
 
 ここでもポイントは「三尋分布」です.「三尋布」は計算単位としても用いられていました.ここから,「三尋分布」を規格そのものを表すーーつまりは木簡に登場する布が旧規格(4丈規格)であることを示す挿入句であると考えるのです.つまりは,

銀5両2文=布3尋分布11端
     =旧規格の布11端
 
と読むわけです.詳細は
 
 
に譲るとして,この新仮説に従うと「高すぎる布」の問題を生じさせずに「1:1」説に有利な解釈が得られます.この新仮説があることから,「1:10」が明確に優勢であるとまではいえないと感じたため,書籍の記述では結論をぼやかすことにしました.
 
 
 皆様はどの解釈が「しっくり」来ましたか? 残された資料と状況証拠から推理は1:10説の方が説得的だと感じます.ただ,実は個人的には「1:1」説が正解であって欲しい……というかその方が面白いのになぁというのも素直な感想です.私がこの話を小説に書くとしたら「1:1」説で書くなぁ(笑)
 

お金はなぜ,お金なのか?

 経済に関して考え始めると,貨幣というのはなんとも不思議な代物だと感じるものです.「お金はなぜ,お金なのか?」に関する一般的な理解は以下のようなものではないでしょうか?

  • 貨幣以前の世界では物々交換による取引が行われていた
  • 物々交換は取引相手(自分の持っているものを欲していて,自分が欲しいものを持っている人)を探すのに大変な手間がかかる
  • この手間を省く便利なツールとして布や稲など,多くの人が欲しがる商品が「交換仲介品(medium of exchange)」となる
  • 耐久性や持ち運びの容易さなど,medium of exchangeとして優れた性質を持つ金・銀あたりが「貨幣」として選ばれるようになる
  • しかし,金・銀などの金属貨幣でも輸送の手間はあるし,盗難も怖い.そのため,金・銀の預かり証が登場し,そのうち預かり証そのものが支払いに用いられるようになる.【紙幣の誕生】
  • しかし,一商人が発行した「預かり証」は不渡り(預かり証を持参しても金・銀を返してもらえない)になることがある.不渡りに対する保険制度が必要になる.【中央銀行制度の萌芽】

経済学の講義や入門書では,だいたいこんな感じの説明が行われます.ちょっと昔の記事ですが,これなんか典型です.

 しかし,これ本当ですかね.

 今回はそのなかで「物々交換」について考えてみましょう.

 文化人類学者のデヴィッド・クレーバーが『負債論 ー貨幣と暴力の5000年』(以文社,酒井隆雄監訳)のなかで繰り返し指摘しているように,考古学や文化人類学の研究を通じて広範な物々交換が行われる前近代社会というのはどうも確認されないようです.そして日本の歴史を振り返ってみても,この種の発展段階論(?)はどうも妥当ではないようです.

 では,貨幣以前または商品貨幣やそれに近いmidium of exchangeのない社会での交換はどのように行われたのでしょう.「贈与と返礼」により行われたという指摘はマルセル・モースの古典的な業績(『贈与論』)以来の少なからぬ論者の注目するところです.

 贈与とそれに対する義務的な返礼を現代的な用語法に置き換えると,これは

  • 贈り物を受け取ることは,それに対して返礼するという債務を負った
  • 贈り物を贈ることは,後に返礼を受け取れるという債権を得た

という話になる.すると,貨幣以前のmidium of exchangeは債務・債権関係だったのではないかという着想に行き着くわけです.

 贈与を通じて形成される債務・債権関係が「貨幣」に進化するのはどのようなときか……詳しい話は近著を読んでいただくとして(お気づきかと思いますが本エントリは↓のステマ……というかモロマです),「信用できる債務者」が登場したときなのではないでしょうか.

日本史に学ぶマネーの論理

日本史に学ぶマネーの論理

 

 では,「信用できる債務者」とは何者か.一定以上の継続性・支配力のある政府があるときの政府は「信用できる債務者」の強力な候補となり得るでしょう.政府負債として貨幣が生まれた例などあるのか――と問われたならば,我が国における公的な貨幣はまさに「政府負債としての貨幣(銭)」に始まります.

 我が国初の本格的な貨幣とされる和同開珎(708年発行)は平城京遷都のための資金調達手段,なかでも人足への賃金支払い手段,として発行されたと考えられます.それに先行する富本銭(680年頃発行)も,成功はしなかったものの,同様の意図があったのではないかと思われる.我が国における貨幣は政府負債として始まったのです.

 一方で,政府負債の価値は何によって裏付けされていたのでしょう.私はここに富本銭が本格的な流通貨幣にはならず,和同開珎においてそれが達成された大きな理由があると考えています.政府負債としての銭貨の価値の裏付けは「それ(政府発行の銭)で税金を支払うことができる」という税金クーポンとしての性質にあります.

 税の銭納化を進めることなく発行された富本銭は本格的な流通貨幣とはならなかったようです*1.また和同開珎銅銭もまた発行直後より価値の下落が続きます.そのなかで和同開珎銅銭の価値を安定させる大きなきっかけとして注目したいのが722年の税(調)の銭納化の拡大*2です.明示的に納税手段としての役割をもったことで,和同開珎銅銭は我が国における初の本格的流通貨幣になっていったわけです.

 

 和同開珎,なかでも和同開珎銅銭がいかにして流通貨幣としての地位を獲得していったのかの詳細は書籍に譲るとして,

  • 我が国における貨幣が政府負債から始まり,
  • はじめに政府が負債を発行し,それを税の形で回収するという形で貨幣流通がはじまった

――要するにTax Driven Moneyから日本貨幣史が始まったという経緯は,今日の経済論争・論戦において,ちょっと注目しておきたいところですね.

 

 このように書くと,貨幣の歴史的経緯なんてどうでもよい(現代のマネーとは関係ないじゃないか)と思われるかもしれません.しかし,ここは意外と重要な話なのではないかと思うのです.

 貨幣に関する典型的な発展段階的な理解――物々交換の不便さを解消するために貨幣が登場したという話(貨幣ツール論)は,貨幣は実物経済に影響しないという貨幣ヴェール観,または貨幣は実物経済の鏡像であり実物経済を変動させる原因ではないという見解の源流なのではないでしょうか.だとしたら,その源流が虚構であることを示すこともまた貨幣に関する議論を深めていくために必要な作業ではないかと感じるんですよね.

*1:当時の取引記録には富本銭での取引が登場しません.まだ発掘されていないだけかもしれませんが,和同開珎銅銭よりも流通しなかったことは間違いないでしょう.

*2:畿内から畿内周辺八か国(伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊)への拡大